研究の話②

今回は自分の研究をかたちづくる学びについてまとめてみました。もう少し丁寧に書けばよかったと思いますが、機会があれば改訂します。

 震災という出来事を完全に忘れることは絶対ない。ただ月日が経ち、自分が目の当たりにした景色がいつしか記憶の中で曖昧になり、過去の記憶もどんどん流れ落ちてしまってるように感じる。膨大な情報の波に日常的に飲まれるなかで、細部に目を凝らす力がどんどん衰えてる気がする。細かい部分をどんどん忘れてしまうような感覚。それに抗うために思索の軌跡を書き留めておきたい。

 宮城県石巻市で生まれ育った私は、小学生の時に東日本大震災を経験した。激しい揺れで窓ガラスが割れ、道路が歪み、悲鳴が飛び交った当時の状況をいまでも鮮明に覚えている。その後、私は高校まで地元で過ごした。そして甚大な被害を受けた街並みが、復興事業により徐々に移りかわるさまを目の当たりにしてきた。ただ地元にいたときは震災という出来事があまりにも重大で、自宅が浸水/流失したり、家族や親族が亡くなったりした人も周囲にいるため、自ら話題を切り出すことすら躊躇われるような、話をしてはいけないと無意識に思わせるような雰囲気/共通了解があった。傷や悲しみ、後ろめたさが漂っていた。

 一方で、大学に進学して以降、授業で震災について学ぶ機会があり、そのなかで被災地について自分が何も知らないことを痛感した。人とのやりとりのなかで、自分が「被災地」出身であることを強烈に意識させられた。さらに自分の当事者性や位置性について考えるようにもなる。地元から一歩外に出ると、周囲の人たちは、自分を「被災者」として見なす。ただ「被災者」が必ずしも一枚岩でないことも知っている。それぞれの経験や語りには差異がある。そうした人びとのリアリティが、無意識のまま普遍化したり均質化したりして語ることは避けなければいけないと感じた。ただ同時に、「被災者の語りや経験を部分的に切り貼りして、解釈を加え、他者化してしまうことに対する言いようのない怖さも覚えた。けど何もしないというわけにはいかなかった。こうして逡巡を抱えながらも、東日本大震災をめぐる問題に取り組んできた経緯がある。

 ここでは「復興」という出来事が被災地の地域社会や住民に対してどのような影響をもたらし、既存の制度や規範と関連しながら、どのような声や可能性が抑圧され、失われてきたのかを考えることが中心的な課題であった。その際に念頭にあったのは、被災地における災害対応や復興事業をめぐって、「〈中心―周辺〉の構造」が顕著にみられたことである。つまり津波により甚大な被害を受けた〈周辺〉地域で、情報や物質や人手といったリソースが全体的に不足し、二次的な被害が生じた。とりわけ復興まちづくりでは、「何を残すのか」が問われないことで、必ずしも住民の意を反映しない、場所や空間の改変や刷新が遂行された。それは苦悩や葛藤や諦念を必然的に伴うようなプロセスでもあった。

 それと同時に、問題視したのは、社会的な属性や地位を理由として、不当な苦痛や抑圧を経験する被災者の存在である。災害発生時に現地にいた人々は、その被害を平等に受けているのではない。むしろ社会での既存の差別構造が、災害時に顕在化することで、なんらかのマイノリティ性を持つ人びとに対して、リスクや資源が不均衡に配分され、抑圧的に作用するのである。しかしながら、そうした被災者の声は、避難生活や生活再建に際して、「みんなたいへん」とされる状況のなかで、「わがまま」とみなされ、かき消された。

 これまで私は、震災復興について、公共政策論に軸足を置き、政治学行政学、あるいは社会学の知見を活かしながら、被災地の現場の状況や実態を学び、現行の復興体制をめぐる構造的・制度的な問題性を批判的に考察してきた。

 大学に入り学び始めた分野として、ジェンダーセクシュアリティ研究がある。ここでは社会のなかで何らかのマイノリティ性を持つ人々が、抑圧や差別、暴力や苦痛を不当に経験し、しばしば権利や尊厳を侵害されてきた不正義の歴史があることを学んだ。そうした学びは、規範や制度から逸脱した自身のセクシュアリティについて苦悩し、しばしば困難を抱えてきた自身の経験を、社会や歴史との関係性のなかで相対化し、理解するものでもあった。

 一方で、ジェンダーという視座については、自身の立場性に対して疑義を突き付けるものだった。ケイン樹里安の言葉をかりるなら、「気にせずにすむ人」であることを痛感した。現在の日本社会は国際的に見ても女性の料理・家事・育児等の無償労働の割合が高く、一方で男性の有償労働時間の割合が長い。その意味で性的役割に関する無意識の偏見が強いといえる。ここでフルタイム労働を続けながら、ほとんど一人で家族のケア労働を担う母親のことを思い、苦しくなった。そうした個人的な思いからも、マジョリティが無自覚に内面化しているジェンダー規範や偏見を可視化させ、差別が構造化された既存の政治を根本的に解体する必要性を感じた。

 それと同時に、ジェンダーセクシュアリティに関わる問題系は、決して単純なものではなく、既存の政治や制度、資本主義、社会の規範や価値観、社会的な属性や地位など様々な要因が複雑に絡み合いながら社会のなかで存在していることを学んだ。それは人びとが経験する抑圧や差別、暴力や苦痛をめぐる問題を、単純化して把握することの暴力性を再考する契機であった。つまり特定のカテゴリーに属する人びとの状況や経験の不可視化/周縁化することで、あらゆる問題を生み出す既存の社会構造を再生産することにほかならない。こうした陥穽に陥らないため、確かに歴史や現実を認識し、既存の政治や規範や権力関係をラディカルに批判する視座や姿勢は、自身の研究態度にも反映されている。

 また私は、トラウマ的な経験や出来事をめぐる記憶の問題にも取り組んできた。岡真理は、その著書『記憶/物語』で、この社会では、それ自体暴力的な出来事が、その記憶を他者に分有されることなく、忘却の闇のなかに葬り去られるという暴力/現在の暴力にさらされているということを指摘する。こうした暴力的な出来事が「なかったこと」になる/されること暴力性に考えるようになったきっかけがある。

 一つは、沖縄をめぐる問題である。つまり沖縄という場所で、性差別や性暴力が、日本やアメリカという国家が行使する植民地主義的権力と複雑に絡み合いながら展開し、そして女性の人権や尊厳が侵害され、しばしば周縁化されてしまうという現実である。もう一つは、日本軍戦時性暴力の問題である。戦時性暴力により身体的・精神的に大きな傷を負うとともに、社会のなかで何重にも重なり複雑に絡み合うような抑圧や困難を経験しきた女性の経験や語りは、あまりに残酷で、共感することも憚られるような生々しさがあった。万愛花さんが生前に残した「謝罪してほしい/罪を認め 頭を下げて 賠償すべきです/私が死んでも/鬼になって闘う/魂となって 皆と共に闘う/真理を手に入れる必要がある/奪われた真理を取り戻す」という言葉は決して忘れることはない。

 こうした現実を知り、植民地主義的な権力の行使により生命や尊厳を蹂躙された他者の存在を想像できないこと、さらには他者の存在を忘却していることすら忘却してしまっていることに気づき、無関心でいられる特権性や暴力性に直面した。かつて残酷な侵略行為や戦時性暴力を可能にした植民地主義的な政治と同じ地平のうえに現代社会が成立していること、そしてその矛盾が複数の国家との関係のなかで現出していること、忘却された他者への想像力の欠如が、いまなお差別や暴力を再生産し続けていることを突き付けられた。

 そうしたなかで追悼や記憶をめぐる問題について考えるようになる。何らかのマイノリティに属する特定の生は、しばしば国家による理不尽な暴力の標的とされ、人びとは日常の混乱と断絶を経験し、生命を脅かされてきた。そうした生が失われたとき嘆かれ悼まれるのは自明ではない。(国家的な)追悼や記憶のプロセスは、巧妙な包摂/排除の政治を必然的に伴う。つまり、ある特定の人々が受けた被害や損害は、取り返しのつかないものとして、悲嘆や共感に値するものとされる一方で、それを阻まれる他者をつくりだす。そうした他者とは誰か、いかなるプロセスのもと他者が産出され、忘却されるのか。人間の生の価値を峻別する枠組や境界が画定され、作用する諸相について考えている。それは、これまで注意深く視野から外されてきた部分まで視野に収めるように焦点を絞り直して視野を広げていく作業にほかならない。

いかがだったでしょうか。今回はこれまで書いたものを継ぎはぎしてる箇所も多く、読みにくかったかもしれません。次回は、どうして福島の原発事故の問題に取り組み始めたかについて、ぼちぼち書いてみようかと思います。続く。