覚書。

 最近全然更新できていなかったのですが、久しぶりに書いてみました。こないだおしゃべりしてたなかで考えたことを覚書として残しておきます。

 なんらかの抑圧や暴力を経験し、そのひとが傷つき、しんどさや苦しさをかかえているとき。トラウマに苛まれ、絶望や後悔、怒りや悲しみ、そうした複雑な感情が入り乱れる渦中に留め置かれたとき。そこから回復するためには、自身の経験について他者から共感をもって話を聞いてもらい、自分の経験が真実であることを信じてもらうことをつうじて、エンパワーメントされることが必要となる。

 〈わたし〉と〈あなた〉の経験には、なんらかの共通点や類縁性があるかもしれない。それは個人的な人間関係に端を発することもあれば、社会のなかに構造化された差別や不正が原因ということもあるだろう。もしくは双方がかかわることも往々にしてあるように思う。それは、「共感」を生じさせる契機となる。わたしも同じような経験をした、同じような思いをした、同じような傷や苦しさをかかえた、と。ここでは過去形で記したが、それは現在形でもありうる。

 〈わたし〉と〈あなた〉とのあいだに共感が生まれ、そうした共感の輪がひろがる。それは大きな力となり、決して無視できないものとなる。それは社会を変革する可能性を有しているといえるだろう。

 ただし〈わたし〉が〈あなた〉に、あるいは〈あなた〉が〈わたし〉に対して共感をもち、それを言葉や態度で示そうとするとき、留意すべきことがあると思われる。それは〈わたし〉が経験してきた傷や苦しさは、〈あなた〉のものではないし、〈あなた〉が経験してきたこともまた〈わたし〉のものではない、ということである。〈わたし〉と〈あなた〉のあいだには決して越えることができない差異がある。あたりまえのことのようだが、そのひとの経験は、そのひと固有のものであり、侵害することはできない。

 〈わたし〉の経験や語りを〈あなた〉が――逆もまた然り――、我が事のように認識し、翻訳し、代弁するという行為には、ある種の暴力性がつきまとう。そうした行為には、そのひとの経験や語りを「領有」や「収奪」する可能性があるからだ。

 繰り返しになるが、そのひとの経験は、そのひと固有ものである。一人ひとりが異なる経験や考えをもつ。そのため、わかりあえることもあれば、わかりあえないことも当然ある。他者に対するわからなさ、わかりあえなさは、決して心地よいものではない。むしろ苦しいし、ときに他者とぶつかるきっかけになるかもしれない。他者とかかわることには根源的な苦しさやしんどさが含まれている。

 だからといって、ここで思考を停止させ、相対主義に陥り、他者との関係性をあきらめ、放棄することは事態を何も解決しない。そのことは、あるひとが経験した抑圧や暴力それ自体や、背後にある政治や社会の存在を等閑視し、そして不正や差別を産み出す構造を温存し、抑圧や暴力を再生産することにつながる可能性があるからだ。

 ではどうしたらよいのだろうか。〈わたし〉と〈あなた〉が互いの差異について対話し、思考をめぐらせ、そして互いの経験や考えを認め合い、連帯を立ち上げるためにはどうしたらよいだろうか。〈わたし〉と〈あなた〉が互いに尊重し合いながら、――ときに立ち止まりつつも――歩みを進めるにはどうすればよいだろうか。残念ながら、いまの自分はその明確な解答を持ち合わせていないし、そもそも明快な解などない。だからこそ、おそらく地道な道のりになるだろう。他者との関係性のなかで、ぶつかり、傷つくことを経験しながら、それでもあきらめずに、だれかと連帯することの可能性に賭けたい。その可能性を模索したい。

 ということをつらつらと書いてきたが、自分の考えにどこか陥穽があるかもしれないし、自身の研究に落とし込んだとき、「災害伝承」という実践をどのように解釈することができるだろうかという課題もある。「ではどうしたらよいのだろうか」の部分が肝要だけど、いまは書けないので、またいつか続きを書きます。

ここまで1500字くらい。備忘録として置いておきます。季節の変わり目で体調管理が難しいですよね。しかも新年度/新学期という。研究の手が空いた時とかブログぼちぼち更新できれば良いのだけれど。

 

ではでは。

研究の話③

今回から福島に関して書いていこうかと思います。福島編の最初はちょっと総論的な話と久しぶりに福島を訪れたときの話をしたいと思います。

 修士課程では、福島県浜通り地域における災害伝承を対象として、研究を進めたいと考えいている。周知の通りだが、東日本大震災に伴い発生した原発事故は、広範囲に深刻な放射能汚染をもたらし、多数の避難者を生んだ。また放射能汚染による広域的・長期的避難は、住民の生命や健康を脅かしただけではなく、生活基盤や地域コミュニティを根底から揺るがし、人びとの暮らしや生業にも不可逆的な影響をもたらした。

 そうした被害は、人びとの生活や尊厳を全体的に侵害する事態であり、現在進行形の問題でもある。原発事故後10年以上も経過したが、今なお避難生活を続ける人びとがいる。しかし被災地では、「復興」や「再生」の掛け声が次第に大きくなるにつれ、事故に伴い人びとが抱えてきた苦悩や困難の事実が覆い隠されているようにも思われる。

 たとえば、低線量被曝の問題をみると、それは不可視的で、確率的不確実性を伴うだけに「リスクをどう感じるか」「リスクへどう対処するか」という問題が個人に帰責され、人びとは正解のない選択と行動が何度も強いられた。また復興プロセスにおける避難指示区域再編とそれに伴う賠償格差や避難支援の打ち切りは、人びとの間に相互監視と自己検閲を生んだ。さらには被害や不安や恐怖を口にすることは、「風評被害」や「差別」を助長するとさえみなされた。こうしたなかで、日常生活の水面下において、さまざまな緊張関係が張り巡らされ、差別や偏見を生み出し、被害者を幾多にも分断した。そのことで被災者は新たな苦痛を受け、ときに我慢や沈黙、諦めにつながっている。

 さらに廃炉作業の困難、放射性廃棄物の中間貯蔵/最終処分をめぐる問題、漁業関係者との合意がなく推進されるトリチウム汚染水/ALPS処理水の海洋放出といった問題も残存している。このように、福島原発事故は「終わっていない」のである。そしてその問題は、多面的かつ複雑である。福島原発告訴団の一人はこのようにいう。

想像してほしい、一瞬にして家や仕事、ふるさとを奪われることを。家族や親しい友や地域社会がバラバラにされてしまうことを。ともに暮らした生き物たち見捨てなければならなかったことを。実りの秋を彩る稲穂の代わりに、積み上げられる放射性のゴミの山を。その不安を口にできない雰囲気を。避難区域が解除され、目標の年間1ミリシーベルトを下まわらない地に帰還せざるを得ないことを。生活再建のための十分な賠償もなく、先行きの不安を抱えてしのぐ仮設住宅での暮らしを。絶望の果てに自死を選ばざるを得なかった心の内を(武藤類子『10年後の福島からあなたへ』)。

 そうしたことを踏まえて、原発事故と避難が「終わったこと」「なかったこと」にされ、問題が解決しないまま、やがて急速に忘れ去られてしまうことに対して強い危機感を覚えざるをえない。

 原発事故の発生から 12 年余を経た福島県浜通りでは、複合災害の経験や記録をアーカイブし、教訓として共有・継承しようとする動きがみられる。たとえば、「福島のありのままの姿」を伝える教育旅行を展開する「ホープツーリズム」事業や、国家プロジェクト「福島イノベーション・コースト構想」の一環として設立された東日本大震災原子力災害伝承館は代表的である。

 2022年3月に、初めて福島県浪江町双葉町、そして富岡町を訪れた。そのときから福島について考え続けている。

 いわき駅から常磐線で北上し、双葉駅で降りた。双葉駅の駅舎はきれいに整備されていたが、駅前に人の姿はほとんどなく閑散としていた。また町の中心部をみてまわると、住居や建物はそのまま残されていたが、人が住んでいた形跡はなく、事故当時のままという印象を受けた。道を走る車も工事車両のトラックがほとんどであった。そのまま海沿いに自転車を走らせ、田んぼ道を抜けると、東日本大震災原子力災害伝承館と双葉町産業交流センター(F-BICC)が整備されたエリアがみえる。

 伝承館の規模はほかの地域のものと比較して群を抜いていた。展示内容について詳細には触れないが、「事実」を淡々と網羅的に伝えているような印象を受けた。たしかに展示については批判されることが多いが、率直に言えば、当時はほとんど知識がなかったこともあって、初めて知る情報もあり、勉強になった側面もある。ただ展示スペースの最後エリアに強烈な違和感を覚えた。

 そのスペースは「復興への挑戦」と題されていた。地域社会の復興や再生のために尽力する人たちが現場にいるのは事実である。それを否定する必要はない。違和感の要因は、国家プロジェクトである「福島イノベーション・コースト構想」(以下「イノベ構想」)の宣伝が大きくなされていたことである。イノベ構想のホームページをみると以下のように紹介されている。

福島イノベーション・コースト構想(福島イノベ構想)は、東日本大震災及び原子力災害によって失われた浜通り地域等の産業を回復するため、当該地域の新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクトです。「廃炉」「ロボット・ドローン」「エネルギー・環境・リサイクル」「農林水産業」「医療関連」「航空宇宙」といった重点分野(以下参照)におけるプロジェクトの具体化を進めるとともに、産業集積の実現、教育・人材育成、交流人口の拡大、情報発信等に向けた取組を進めています。

 双葉町の伝承館は、イノベ構想における「情報発信」の拠点として位置づけられている。穿った見方かもしれないが、このとき直観的に、伝承館という表象空間のなかで何が語られるのか具に確認する必要性を感じた。言葉を換えれば、原子力災害という出来事が「教訓化」されるとき、おそらくそのプロセスは純然たるものではなく、行政の公式見解や意向と何らかの関係性を持つのではないかという仮説が生まれた。

 伝承館を見学し終えたあと、浪江町にある震災遺構請戸小学校に向かうため、海沿いに自転車を走らせた。そのとき路肩でみつけた看板が今でも脳裏に焼き付いている。その看板には「この先帰還困難区域につき通り抜けできません」と書かれてた。その方向には福島第一原発がある。そのとき事故がまだ終わっていないことを強く実感した。

 また浪江町で忘れてはならないのは、津波で死者127名、行方不明者27名の甚大な被害を出したことである。「原子力災害での直接的な死者はいない」といわれることがある。しかし原発事故が起こらなければ、避難指示が出なければ、捜索や救助活動によって助けられた命があるかもしれない。また度重なる避難節活で体調を崩し、災害関連死というかたちで命を落とした方も多くいた。さらに現在、請戸地区は、災害危険区域に指定され、新たな居住や建築が制限されている。いわば「人が住めなくなる/還れない土地」である。ただし「帰りたいが帰れない」といわれるように、事態はそれほど単純ではない。このように「複合災害」という事態の深刻さや複雑さを学んだ。

 翌日には富岡町に行き、とみおかアーカイブミュージアムを見学した。このミュージアムでは、複合災害を地域の歴史に位置づける」というテーマのもと、地域で長い時間をかけて積み重ねられてきた歴史を展示するとともに、震災前の富岡町の様子と比較しながら、東日本大震災原子力災害を境に、地域にどのような変化が起きたのかを伝えていた。ここでは原子力災害が「あたりまえの日常」を奪ったことが身をもって感じられた。

 この3月に4日間にわたり福島に滞在したが、ここで見聞きしたものは、心をぎゅっと掴んで離さなかった。こうして複合災害という出来事について、誰が、何を、どのように伝えているのか、関心を持ち始めた。

という話でした。読んでいただきありがとうござます。次回は3年生の時に取り組んだ伝承館の論文の話になるか/と思いましたが、思ったより今後の研究のアイデアを書いてしまったので、公開はちょっと考えます、、

トラウマ、あるいはクィアとしての矜持。

自分のトラウマ経験について断片的ですが書いてみたいと思います。以下、しんどい記述も含まれるので、注意していただければと思います。

 

1

 あるとき突然フラッシュバックを経験した。抹殺して忘却の闇に葬り去っていた性/暴力の記憶が。それは断片的だった。ただ同時にわたしにとって最も屈辱的な経験をした場面でもあった。その記憶は、私の前に立ち現れるや否や、身体を支配し、そして硬直させた。身体が鉛のように重くなる。鳥肌が立ち、激しい動機に襲われる。浅くなる呼吸、歪む景色、震える手足。一切の思考が止まり、その場面が何度も再生される。苦しい。どうすればよいのかわからない。自分が自分ではないような感覚。受け入れたくない。絶対に受け入れたくない。過去の出来事のはずなのに、その時点において、強烈に、鮮明に、突きつけられた。別のことを考えようとしてもできない。まるで取り憑かれたように甦る。残酷な映像が、加害者の動きが、周りで嘲笑いながら傍観していた人たちの顔が、どんな思いをしたか何も知らない人たちにかけられた言葉が。あのときの恐怖が乱反射するように何度も重なり合うように降りかかる。

 

2

 自分のことが「嘘つき」のように思えてしまう。自分自身の生存を肯定できない。自分を許せない。他人のことばかり気にして軋轢を生まないように振る舞う。何もかも取り繕い過ぎた。嘘で糊塗し過ぎた。自分が誰なのか。信頼に足る人間なのか。全部わからない。

 自棄的なことするのやめたい。孤独感と寂しさでどうにかなりそう。孤独が怖い。誰かが自分のもとから去っていくのが怖い。ひとりになるのが怖い。もう誰も傷つけたくない。もう何も失いたくない。もう傷つきたくない。このまま朝が来なければいいのに。

 

3

 「ゲイだけは無理」「キモい」「死んだ方がいいのに」そんな辛辣な言葉を目も前で浴びせられて、けど何も言い返せなくて、笑ってごまかすしかなくて、どうしようもなく悔しくて、惨めで、気持ちがぐちゃぐちゃになって、消えて無くなりたくて。

 クィアとして、クソみたいな社会のなかを生きていて、日常のなかで絶えず傷つき、規範にそぐわない異物として排除され、残酷な現実に打ちのめされ、悶え苦しんで、擦り切れそうで、誰も理解してくれなくて、しんどさを抱えてきたのに誰にも言うことができなくて、そんななかで自分のことを自分自身で何度も抑圧して、否定して、欺いて、殺して、そんなこと繰り返した。惨めでつらい思いをしてきた過去を思い出して、どうしようもなく悔しくて、悲しくなった。どうしようもなくしんどいとき、つらいときに自分で立ち直る術を見失っていた。あるとき瞬く間に崩れ落ちて、心が引き裂かれ、気がついたら光が見えないほど暗闇のどん底にいた。孤独のなかで自分自身ですら味方と思えず、苦しい思いをした。

 

4

 自分がどんなに惹かれようが、その人にとって自分が惹かれる存在じゃないのがつらい。別れ際に抱きしめながら寂しいことを伝えた。思いのほかやさしかった。でもそのやさしさもつらい。どんなに想いを伝えようが叶わないものは叶わない。あの人のこと何も知らない。ずっとあきらめや絶望の連続。そんなに大人になれない。傷つくのが怖い。奥歯を噛みしめながら、ひとり帰り道で泣いてる。何やってんだろ。バカ。

 

5

 自分にも当然マジョリティ性はあるし、自分自身の行動や言葉の責任に対して、できる限り真摯に誠実に向き合いたいと思う。ただクィアとして生きてきて、胸が焼き付くような孤独や後悔、葛藤や苦悩、嫉妬や疎外感、諦め、そうした感情が複雑に入り乱れるような経験をしてきたことも紛れもない事実である。けど政治的な正しさや規範から逸脱した自分の経験や情動は、誰もわかってくれない、取るに足らないものと見なされる、なかったことにされる。そんなのありえない。

 

6

 抑圧され、声が絶たれ、言葉を奪われ続けるのはいやだった。いま死んだら自分がこれまでの人生で抱えてきたことが「なかったこと」になるのが、突然悔しくなった。それがどのようなかたちであれ沈黙を拒絶したい。もう自尊心を削られたくない。誰にも侮辱されずに生きていたい。汚辱と惨めさにまみれたセクシュアリティを引き受ける。自分の身体やメンタルを大切にしながら、他者と分かち合い互いにリスペクトし連帯しながら、なんとか生き延びたい。そのために学び、思考を続け、言葉を紡ぎ、誰かに届けるという営みを続けたい。クィアとしての矜持。ここだけは譲れないし、譲らない。何があっても。そこを否定されたら終わりだから。

研究の話②

今回は自分の研究をかたちづくる学びについてまとめてみました。もう少し丁寧に書けばよかったと思いますが、機会があれば改訂します。

 震災という出来事を完全に忘れることは絶対ない。ただ月日が経ち、自分が目の当たりにした景色がいつしか記憶の中で曖昧になり、過去の記憶もどんどん流れ落ちてしまってるように感じる。膨大な情報の波に日常的に飲まれるなかで、細部に目を凝らす力がどんどん衰えてる気がする。細かい部分をどんどん忘れてしまうような感覚。それに抗うために思索の軌跡を書き留めておきたい。

 宮城県石巻市で生まれ育った私は、小学生の時に東日本大震災を経験した。激しい揺れで窓ガラスが割れ、道路が歪み、悲鳴が飛び交った当時の状況をいまでも鮮明に覚えている。その後、私は高校まで地元で過ごした。そして甚大な被害を受けた街並みが、復興事業により徐々に移りかわるさまを目の当たりにしてきた。ただ地元にいたときは震災という出来事があまりにも重大で、自宅が浸水/流失したり、家族や親族が亡くなったりした人も周囲にいるため、自ら話題を切り出すことすら躊躇われるような、話をしてはいけないと無意識に思わせるような雰囲気/共通了解があった。傷や悲しみ、後ろめたさが漂っていた。

 一方で、大学に進学して以降、授業で震災について学ぶ機会があり、そのなかで被災地について自分が何も知らないことを痛感した。人とのやりとりのなかで、自分が「被災地」出身であることを強烈に意識させられた。さらに自分の当事者性や位置性について考えるようにもなる。地元から一歩外に出ると、周囲の人たちは、自分を「被災者」として見なす。ただ「被災者」が必ずしも一枚岩でないことも知っている。それぞれの経験や語りには差異がある。そうした人びとのリアリティが、無意識のまま普遍化したり均質化したりして語ることは避けなければいけないと感じた。ただ同時に、「被災者の語りや経験を部分的に切り貼りして、解釈を加え、他者化してしまうことに対する言いようのない怖さも覚えた。けど何もしないというわけにはいかなかった。こうして逡巡を抱えながらも、東日本大震災をめぐる問題に取り組んできた経緯がある。

 ここでは「復興」という出来事が被災地の地域社会や住民に対してどのような影響をもたらし、既存の制度や規範と関連しながら、どのような声や可能性が抑圧され、失われてきたのかを考えることが中心的な課題であった。その際に念頭にあったのは、被災地における災害対応や復興事業をめぐって、「〈中心―周辺〉の構造」が顕著にみられたことである。つまり津波により甚大な被害を受けた〈周辺〉地域で、情報や物質や人手といったリソースが全体的に不足し、二次的な被害が生じた。とりわけ復興まちづくりでは、「何を残すのか」が問われないことで、必ずしも住民の意を反映しない、場所や空間の改変や刷新が遂行された。それは苦悩や葛藤や諦念を必然的に伴うようなプロセスでもあった。

 それと同時に、問題視したのは、社会的な属性や地位を理由として、不当な苦痛や抑圧を経験する被災者の存在である。災害発生時に現地にいた人々は、その被害を平等に受けているのではない。むしろ社会での既存の差別構造が、災害時に顕在化することで、なんらかのマイノリティ性を持つ人びとに対して、リスクや資源が不均衡に配分され、抑圧的に作用するのである。しかしながら、そうした被災者の声は、避難生活や生活再建に際して、「みんなたいへん」とされる状況のなかで、「わがまま」とみなされ、かき消された。

 これまで私は、震災復興について、公共政策論に軸足を置き、政治学行政学、あるいは社会学の知見を活かしながら、被災地の現場の状況や実態を学び、現行の復興体制をめぐる構造的・制度的な問題性を批判的に考察してきた。

 大学に入り学び始めた分野として、ジェンダーセクシュアリティ研究がある。ここでは社会のなかで何らかのマイノリティ性を持つ人々が、抑圧や差別、暴力や苦痛を不当に経験し、しばしば権利や尊厳を侵害されてきた不正義の歴史があることを学んだ。そうした学びは、規範や制度から逸脱した自身のセクシュアリティについて苦悩し、しばしば困難を抱えてきた自身の経験を、社会や歴史との関係性のなかで相対化し、理解するものでもあった。

 一方で、ジェンダーという視座については、自身の立場性に対して疑義を突き付けるものだった。ケイン樹里安の言葉をかりるなら、「気にせずにすむ人」であることを痛感した。現在の日本社会は国際的に見ても女性の料理・家事・育児等の無償労働の割合が高く、一方で男性の有償労働時間の割合が長い。その意味で性的役割に関する無意識の偏見が強いといえる。ここでフルタイム労働を続けながら、ほとんど一人で家族のケア労働を担う母親のことを思い、苦しくなった。そうした個人的な思いからも、マジョリティが無自覚に内面化しているジェンダー規範や偏見を可視化させ、差別が構造化された既存の政治を根本的に解体する必要性を感じた。

 それと同時に、ジェンダーセクシュアリティに関わる問題系は、決して単純なものではなく、既存の政治や制度、資本主義、社会の規範や価値観、社会的な属性や地位など様々な要因が複雑に絡み合いながら社会のなかで存在していることを学んだ。それは人びとが経験する抑圧や差別、暴力や苦痛をめぐる問題を、単純化して把握することの暴力性を再考する契機であった。つまり特定のカテゴリーに属する人びとの状況や経験の不可視化/周縁化することで、あらゆる問題を生み出す既存の社会構造を再生産することにほかならない。こうした陥穽に陥らないため、確かに歴史や現実を認識し、既存の政治や規範や権力関係をラディカルに批判する視座や姿勢は、自身の研究態度にも反映されている。

 また私は、トラウマ的な経験や出来事をめぐる記憶の問題にも取り組んできた。岡真理は、その著書『記憶/物語』で、この社会では、それ自体暴力的な出来事が、その記憶を他者に分有されることなく、忘却の闇のなかに葬り去られるという暴力/現在の暴力にさらされているということを指摘する。こうした暴力的な出来事が「なかったこと」になる/されること暴力性に考えるようになったきっかけがある。

 一つは、沖縄をめぐる問題である。つまり沖縄という場所で、性差別や性暴力が、日本やアメリカという国家が行使する植民地主義的権力と複雑に絡み合いながら展開し、そして女性の人権や尊厳が侵害され、しばしば周縁化されてしまうという現実である。もう一つは、日本軍戦時性暴力の問題である。戦時性暴力により身体的・精神的に大きな傷を負うとともに、社会のなかで何重にも重なり複雑に絡み合うような抑圧や困難を経験しきた女性の経験や語りは、あまりに残酷で、共感することも憚られるような生々しさがあった。万愛花さんが生前に残した「謝罪してほしい/罪を認め 頭を下げて 賠償すべきです/私が死んでも/鬼になって闘う/魂となって 皆と共に闘う/真理を手に入れる必要がある/奪われた真理を取り戻す」という言葉は決して忘れることはない。

 こうした現実を知り、植民地主義的な権力の行使により生命や尊厳を蹂躙された他者の存在を想像できないこと、さらには他者の存在を忘却していることすら忘却してしまっていることに気づき、無関心でいられる特権性や暴力性に直面した。かつて残酷な侵略行為や戦時性暴力を可能にした植民地主義的な政治と同じ地平のうえに現代社会が成立していること、そしてその矛盾が複数の国家との関係のなかで現出していること、忘却された他者への想像力の欠如が、いまなお差別や暴力を再生産し続けていることを突き付けられた。

 そうしたなかで追悼や記憶をめぐる問題について考えるようになる。何らかのマイノリティに属する特定の生は、しばしば国家による理不尽な暴力の標的とされ、人びとは日常の混乱と断絶を経験し、生命を脅かされてきた。そうした生が失われたとき嘆かれ悼まれるのは自明ではない。(国家的な)追悼や記憶のプロセスは、巧妙な包摂/排除の政治を必然的に伴う。つまり、ある特定の人々が受けた被害や損害は、取り返しのつかないものとして、悲嘆や共感に値するものとされる一方で、それを阻まれる他者をつくりだす。そうした他者とは誰か、いかなるプロセスのもと他者が産出され、忘却されるのか。人間の生の価値を峻別する枠組や境界が画定され、作用する諸相について考えている。それは、これまで注意深く視野から外されてきた部分まで視野に収めるように焦点を絞り直して視野を広げていく作業にほかならない。

いかがだったでしょうか。今回はこれまで書いたものを継ぎはぎしてる箇所も多く、読みにくかったかもしれません。次回は、どうして福島の原発事故の問題に取り組み始めたかについて、ぼちぼち書いてみようかと思います。続く。

研究の話①

 これから何回かにわけて自分の研究について、エッセイに近いかたちで、つらつらと書いてみようと思います。メモ書きをつぎはぎしたところもあるので、ちょっと文章が読みにくい箇所もあるかと思いますが、ご容赦ください。

 私は現在、公的アクターによる災害伝承を研究している。被災地では、死者を追悼し、震災の経験や教訓を継承することが当初から政策的な課題として関心を集め、公的アクターが主導する形で、震災伝承施設がつくられてきた。

 初めて震災遺構を見学したときの感覚を今でも忘れることができない。たしか2020年8月。どう表現したらいいのかわからない苦しさ。人びとの生活や営みの痕跡が流失し、多くの命が失われたという、取り返しのつかない事態を眼前に、胸を強く締め付けられ、目をそむけたくなった。しかし当初から震災の被害や復興について問題意識をもっていた私は、災害伝承の現場を繰り返し訪れ、いかなる事実が、いかなる手法で、伝えられているのかを継続して観察した。

 そうしたなかでいくつかの疑問が生じた。公的な災害伝承は、ステークホルダー間の交渉や対立、あるいは制度的・構造的な制約といった困難を含んでいるのではないか。災害伝承の現場において、想起に値する記憶や物語が教訓として画定される一方で、周縁化や忘却される記憶が産出されているのではないか。つまり何かが語られるとき、語られない何があるのではないか。そのプロセスは、被災地において行政主導で推進された「復興」と深く関係するのではないか。

 災害伝承の現場では、復興のプロセスのなかで、いかにして記憶や教訓の継承と向き合うのか、試行錯誤が繰り返されてきた。そして災害の経験や教訓が活かされ、リアリティをもった語りが実践されてきた。ここでは、人びとの死をめぐる「なぜ」が共有されることで、「自分だったら何ができるのか、どういう判断をして、どういう行動を取るのか」という自問自答が生まれ、「我が事」として出来事を捉える仕掛けがなされている。

 一方で、そのプロセスは一筋縄ではいかない。多くの死者や困難が伴うトラウマ的な出来事では、人びとがその悲惨な事実を直視するのは容易ではない。そのため災害伝承の現場では、過去や現在とどのように向き合うのか、被災したモノや構造物を残すのか/残さないのか、選択や試行錯誤、苦悩や逡巡の連続であり、さまざまな立場から思いが行き交ことになる。政治的な駆け引きが内在したり、社会的な立ち位置が影響したりすることも往々にしてあり、そのプロセスで葛藤や対立が生じることもある。たとえば、宮城県南三陸町の防災庁舎や岩手県大槌町の役場庁舎の事例では、震災の痕跡を強く残した震災遺構の保存をめぐり、住民間でも意見が分かれた。また宮城県石巻市の大川小学校の事例では、県と市、そして遺族の間の訴訟もあるなかで、事故をめぐる公的な責任を不可視化しようとする動きがみられた。

 現在、災害伝承という理念や営為の意義や価値が自明視されているように思われる。また東日本大震災では、災害伝承が制度化されたことから、行政による財源拠出が積極的にされ、事業が推進された。ただ災害伝承は、そうした社会的な期待や価値とは裏腹に、困難を含みこんでいる側面がある。そのなかで自分が関心を持ったのが、公的な災害伝承が一つの公共政策として遂行される一連のプロセスであり、災害伝承の意義や価値が一種の規範として作用するようになり、言説や表象が構築される政治的・社会的なメカニズムである。こうした事柄について、入念な調査から、詳細に叙述し、分析・考察することが第一の目標である。また被災地で展開する災害伝承の諸相や実態を解き明かすことを通じて、現行の災害復興体制をめぐる構造的な問題性をも逆説的に浮き彫りにしたいと考えている。

 ところで先日卒論を提出した。卒論では、岩手県陸前高田市宮城県石巻市福島県浪江町双葉町において、国の閣議決定*1に基づき、それぞれ整備されている復興祈念公園を対象とし、その政策過程について、復興まちづくりの制度的枠組みと合意形成過程を問題化しながら検証した。それと同時に、地域や生活の再生可能性の途絶や不可逆的な喪失に対して逆説的に問題提起することを試みた。

 なぜ復興祈念公園か。被災地につくられた復興祈念公園は、広大な空間一帯が厳かで整然としており、圧倒される。そうした印象を第一に受けた。ただ誤解を恐れずに言うならば、復興祈念公園の現場に立ったとき、かつてそこに人びとの生活や営みがあったことを、想像することが難しかった。そうした事実が逆説的に示すのは、震災の被害の甚大さかもしれない。ここで留意すべきは、あらゆるものが刷新され、整然とした空間がつくられたことが、被災の事実それ自体だけではなく、被災地における復興まちづくり事業が深く関係するということである。

自宅跡地周辺は住宅地にするための復興事業が進む。花を供えられなくなり、ついに立ち入り禁止になった。足が遠のいた。市内の別の場所に建てた自宅で仏壇に手を合わせ、月命日に墓参する。心は落ち着くが、遺骨がないことに申し訳なさも感じる。/南浜地区には犠牲者を追悼する復興祈念公園が整備される。夫や父のようなたくさんの行方不明者がそのどこかにいるかもしれない。複雑な気持ちになる。/捜索するにも自分一人ではどうしようもない。地域全体の土をくまなく掘り起こしてほしい。一方で復興を遅らせるのは心苦しい(『河北新報』2016年2月24日付朝刊)。

 復興祈念公園という場所については以下のように言い換えることができる。復興祈念公園がある場所は、東日本大震災原子力災害の前は、人びとの生活が営まれていた場所であった。そうした場所は、単なる地理的空間や心象風景ではない。それは自然環境を含めた具体的な土地や空間と、人びとの生活や生業や社会関係、あるいは地域の文化や歴史、アイデンティティとの結びつきの総体である。こうした場所が、「危険」であるとされ、「復興」の名の下で、「人が住めなくなる/還れない土地」に変容した。それは従前の生活者/居住者の生活継続性、あるいは地域社会の再生可能性の途絶を意味する。そして公的アクターが主導するなかで、「復興の象徴」という新たな秩序や意味が計画的に組み込まれた。

 こうしたプロセスは、本来であれば、時間をかけて慎重に考え、対話を重ね、決して一枚岩ではない人びとの論理や事情を擦り合わせながら行われるべきであったはずである。しかしながら、復興祈念公園の政策過程では、現行の災害復興体制をめぐる構造的・制度的な瑕疵から、さまざまな制約が生まれ、合意形成や意思決定について、決定的な難しさを含むことになった。こうした事実を明らかにした卒論では、結論で以下のことを述べた。

被災地に「復興の象徴」として整然とつくられた復興祈念公園から何を読み取るのか、何を考えるのか、そのことを問い続ける作業こそが、東日本大震災という出来事をきっかけに、従前の日常的な風景や生活空間や自然環境が破壊されたり、「復興」の名のもとで刷新されたり、変容したりして失われるなかで、生を喪った人びと、あるいは苦悩や葛藤を抱え、ときに抑圧や困難を経験し、それでも生き延びてきた人びとの忘却に抗い、寄り添うことを可能にする。そして同時に、社会の構造や歴史を根底から問い直し、現行の災害復興のあり方を根本的に変革していくための試金石の一つとなる。本稿はこうした試みの第一歩である。

 復興祈念公園という場所は、純然たる知的・合理的な行為の産物ではなく、人びとの選択や交渉や決定といったプロセスを経てつくられている。その意味で、価値中立性が担保されることはない。過去の出来事や経験を知るための知は、すでに幾度も人の手を介したものであり、真正な過去をわたしたちに直接に伝えているというよりは、はるかに複雑なのである。そうした事実への省察が疎かになれば、何かが失われたとき、そこで何が失われたのか、あるいはそこには何が残されているのかを見落とすことにつながると思われる。そのため、わたしたちは多くの人にとって想起することの意義が自明であるときでさえ、「なぜ、どのように記憶するのか――何を目的として、誰のために、そしてどの位置から記憶するのか――」(米山リサ『広島――記憶のポリティクス』)を繰り返し問わなければならない。以上のような問題意識のもと卒論を執筆した。

 ここまで災害伝承の研究について書いてみました。続く。

*1: この閣議決定(2014年、2017年一部変更)では、「東日本大震災による犠牲者への追悼と鎮魂や、震災の記憶と教訓の後世への伝承とともに、国内外に向けた復興に対する強い意志の発信のため、国は、地方公共団体との連携の下、岩手県陸前高田市宮城県石巻市及び福島県双葉郡浪江町の一部の区域に、国営追悼・祈念施設(仮称)を設置する」こととされている。

年の瀬。

あと数時間で今年も終わり。

 

最後の3日間はずっと体調が悪くて、ベッドとこたつを行き来しながら、ずっと寝ていた。なんか今年を象徴するような3日間だった。

 

今年はとにかくしんどかった。
人生で初めて長期にわたって体調を崩した。
もともと低空飛行ぎみではあったけど、夏に一気にきた。

 

理由はいろいろある。ここでは言えない。けど、苦しかった。
ずっと起き上がれなくて、ほとんど活動できなくなった。毎日毎日泣いてばかりで、鬱々としていた。どうしようもなく泣いた。とにかく自己嫌悪がひどくて、思考のなかで自分のことを追い込んで、責め続けて、でも何も変わらなくて、ことどこくうまくいかなくて、生きてることがどうしようもなくしんどくて、苦しくて、何度も何度も、死にたいと思った。消えたいという気持ちに心が覆われていた。毎日に色がなかった。何もかも嫌になった。

 

引きずり出されるようにむかしの嫌なこと、なかでもトラウマ的な経験を思い出した。

 

都留に一人。ひたすらさみしかった。
疎外感と孤独感でどうにかなりそうだった。ひたすら絶望した。

 

結局、院試はあきらめた。単位もあきらめた。いろいろな約束や誘いを断った。何もかも気力がわかなくて、身体が動いてくれなくて、あきらめざるをえなかった。

 

身体症状もつらかった。
夜になると毎日のように熱が出た。37.5℃くらいの微熱がずっと続く感じ。頭痛や疲労感がとれない。ふとしたときに首筋から背中にかけて締め付けられるように痛くなり、吐き気や動悸に襲われる。思考もぐちゃぐちゃになる。

 

家事も最低限しかできない。
自棄的に酒を飲むようになった。部屋には足の踏み場もないほど、ものが散乱してる。

 

複雑な感情に支配されて、朝まで眠れない。
早朝、新聞配達の原付バイクの音を聞いて絶望する。カーテンから降り注ぐ朝日を見て再び絶望する。今日も眠れなかった、と。そのせいで日中はほとんど動けない。夕方になりようやく起き上がれる、

 

そんな日々を過ごした。夏休みはほとんど療養にあてた。病院にも通い始めた。

 

進路がかかってる大事な時期なのに、何もできなかった。事情を説明するメールを書こうとしても、頭痛がひどくて、パソコンの画面がみられない。本を読もうとしても、とにかく文字が頭に入ってこない。情報がうまく処理できない。自分が自分じゃないみたいだった。そんな自分に嫌気がさして何もしたくなくなった。はらはらと涙が溢れてくる。

 

その期間、ほんとうにたくさんの人にたすけてもらった。何人もの人がしんどいときにそばにいてくれた。いろんな言葉に胸が救われた。たくさん勇気をもらった。五里霧中にいたけど、進むべき方向が少しずつ拓けた。

 

そのかたわらいろんなものを失ってきた。いろんなことをあきらめてきた。
人を傷つけた。おれも心がずたずたになるまで傷ついた。大切な人間関係も崩れた。

 

10月から徐々に体調も戻り始めて、少しずつ本も読めるようになった。11月からは卒論の執筆も進めた。けど相当無理した。すべてを忘れるように、忙殺される毎日に身を任せた。朝から晩まで遅れを取り戻すようにひたすら作業に打ち込んだ。そして帰宅してからは、泥酔するまで酒を飲んで、気を紛らわせた。そして倒れるように寝て、夜中に何度も中途覚醒する。そんな日々が今も続いてる。

 

何度もあの日に戻りたいと思った。繰り返し何度も考えては苦しくなった、ひたすら後悔した。でも自棄的な生活を送っても、ひたすら泣いても何も解決しない。

 

どんなに人の力をかりたとしても、最後に自分を労われるのは自分しかいない。いつまでも自棄的な思考に陥りがちだけど、少しでも”to be positive”のマインドでね、人生いきたいよね。 きっと大丈夫。

 

ここまで1500字くらい。もちろん書ききれないことはたくさんあるけど、思い出しながら吐き出した。来年こそ穏やかに過ごせる一年になるといいなと思う。自分も、みんなも。

 

読んでくれてありがとうございました。冷えるのであったかくしてくださいね。それではよいお年を。

左耳のピアス。

1

全部壊れた。擦り切れそう、ずっと。さびしい。孤独になるのが怖くて毎晩のように酒を飲んでる。

 

2

もう誰にも嘘をつきたくない。こんな嘘で塗り固めた人生やめてしまいたい。これまで傷口を滅多刺しにして抉り続けてきた。何度も何度も。錆びたナイフで。

 

3

ずっと気を張っていて、こころがひとときも休まらない。たいして器用でもないのに、笑ってごまかしてばかりで、隠すのも取り繕うのも疲れた。たえず自分を責め続けて、でも何も変わらなくて、ことごとくうまくいかなくて、気が付いたら思考が自己嫌悪/否定/不信に支配されてる。自分なんて信頼に値しない人間だと繰り返し自問自答する。光が見えないほどの暗闇のどん底。自身の存在価値が揺らぎすぎて、わからなくなってしまった。生きてることがどうしようもなくしんどくて、苦しくて。もう自分で自分のことを抑圧するのをやめたい。

 

4

―――うわもう無理。ふざけんな。

やばい、動悸と変な笑いが止まらない。おかしくなりそう。

それからなんかもう吹っ切れた。勝手にしとけって。

 

5

卒論を書きはじめたばかりのとき、自分のなかですごくつらい決断をした。決断に至るまでの断片を少しずつ書き連ねてみた。寄せ集めるように、思い出しながらポツポツと。いざ書いてみると書き尽くせいないようなことがたくさんあるね。難しい。

 

6

―――とにかく何か自分を変えたかった。

たしかにしんどい出来事はあったけど、最初はそんなたいそうな動機じゃなかった。先輩の左耳に空いたピアスを見て、すごくいいなと、かっこいいなと思った。それで自分でも開けたくなった。ただそれだけのこと。

先輩と会った週明け。友達と石井のうどんを食べたあと、近所のウエルシアで自分でピアッサーを買った。1000円くらい。これまでの自分だったらバイトとか言い訳にして、買うことすら結局しなかったと思う。さすがにちょっと不安だったので、次の日の夜に麻雀するついでに友達の家で空けることにした。

 

―――うわ、ほんとにピアス空けちゃうんだ。

そらめっちゃ緊張したよ!!余裕そうな雰囲気出しておいて、心臓もバクバクだし、空ける場所を何度も何度も鏡で確認した。でもいざ実行するときは一瞬で終わりがちだよね。耳にピアッサーをセットして躊躇せずパチッといった。意外と痛くなかったし、ないよりも青色でキラキラしてるファーストピアスがすごくかわいくて、めっちゃいい。

自分が自分じゃないみたい。はたからみたら「そんなことで」と思うようなことでも、その人にとってみれば全然「そんなこと」じゃないことなんて往々にしてあるからね、

その日は疲れてそのまま友達の家で寝た。

 

7

あまりにも急だったからみんなに理由を聞かれたけど、おれが空けたいと思ったから、それでいいじゃんね。でも、誰かに合わせてばかりの自分とは少しでも決別したい、そんな意思表示くらいにはなったかもしれない。

 

8

もう誰かの理想とされてきたようなやさしい自分はいない。そもそもそんなの虚構だった。

 

9

聞いてて耳に残った歌詞があった。たまたまプレイリストから流れてきたJUDY AND MARY「そばかす」の一節。

おもいきりあけた

左耳のピアスにはねぇ

笑えない エピソード

だいぶピアスホールが安定してきた。膿むこともなくてよかった。そろそろファーストピアスから新しいピアスに替えようかしら。

 

10

左耳のピアスにまつわるまとまらない話でした。