研究の話③

今回から福島に関して書いていこうかと思います。福島編の最初はちょっと総論的な話と久しぶりに福島を訪れたときの話をしたいと思います。

 修士課程では、福島県浜通り地域における災害伝承を対象として、研究を進めたいと考えいている。周知の通りだが、東日本大震災に伴い発生した原発事故は、広範囲に深刻な放射能汚染をもたらし、多数の避難者を生んだ。また放射能汚染による広域的・長期的避難は、住民の生命や健康を脅かしただけではなく、生活基盤や地域コミュニティを根底から揺るがし、人びとの暮らしや生業にも不可逆的な影響をもたらした。

 そうした被害は、人びとの生活や尊厳を全体的に侵害する事態であり、現在進行形の問題でもある。原発事故後10年以上も経過したが、今なお避難生活を続ける人びとがいる。しかし被災地では、「復興」や「再生」の掛け声が次第に大きくなるにつれ、事故に伴い人びとが抱えてきた苦悩や困難の事実が覆い隠されているようにも思われる。

 たとえば、低線量被曝の問題をみると、それは不可視的で、確率的不確実性を伴うだけに「リスクをどう感じるか」「リスクへどう対処するか」という問題が個人に帰責され、人びとは正解のない選択と行動が何度も強いられた。また復興プロセスにおける避難指示区域再編とそれに伴う賠償格差や避難支援の打ち切りは、人びとの間に相互監視と自己検閲を生んだ。さらには被害や不安や恐怖を口にすることは、「風評被害」や「差別」を助長するとさえみなされた。こうしたなかで、日常生活の水面下において、さまざまな緊張関係が張り巡らされ、差別や偏見を生み出し、被害者を幾多にも分断した。そのことで被災者は新たな苦痛を受け、ときに我慢や沈黙、諦めにつながっている。

 さらに廃炉作業の困難、放射性廃棄物の中間貯蔵/最終処分をめぐる問題、漁業関係者との合意がなく推進されるトリチウム汚染水/ALPS処理水の海洋放出といった問題も残存している。このように、福島原発事故は「終わっていない」のである。そしてその問題は、多面的かつ複雑である。福島原発告訴団の一人はこのようにいう。

想像してほしい、一瞬にして家や仕事、ふるさとを奪われることを。家族や親しい友や地域社会がバラバラにされてしまうことを。ともに暮らした生き物たち見捨てなければならなかったことを。実りの秋を彩る稲穂の代わりに、積み上げられる放射性のゴミの山を。その不安を口にできない雰囲気を。避難区域が解除され、目標の年間1ミリシーベルトを下まわらない地に帰還せざるを得ないことを。生活再建のための十分な賠償もなく、先行きの不安を抱えてしのぐ仮設住宅での暮らしを。絶望の果てに自死を選ばざるを得なかった心の内を(武藤類子『10年後の福島からあなたへ』)。

 そうしたことを踏まえて、原発事故と避難が「終わったこと」「なかったこと」にされ、問題が解決しないまま、やがて急速に忘れ去られてしまうことに対して強い危機感を覚えざるをえない。

 原発事故の発生から 12 年余を経た福島県浜通りでは、複合災害の経験や記録をアーカイブし、教訓として共有・継承しようとする動きがみられる。たとえば、「福島のありのままの姿」を伝える教育旅行を展開する「ホープツーリズム」事業や、国家プロジェクト「福島イノベーション・コースト構想」の一環として設立された東日本大震災原子力災害伝承館は代表的である。

 2022年3月に、初めて福島県浪江町双葉町、そして富岡町を訪れた。そのときから福島について考え続けている。

 いわき駅から常磐線で北上し、双葉駅で降りた。双葉駅の駅舎はきれいに整備されていたが、駅前に人の姿はほとんどなく閑散としていた。また町の中心部をみてまわると、住居や建物はそのまま残されていたが、人が住んでいた形跡はなく、事故当時のままという印象を受けた。道を走る車も工事車両のトラックがほとんどであった。そのまま海沿いに自転車を走らせ、田んぼ道を抜けると、東日本大震災原子力災害伝承館と双葉町産業交流センター(F-BICC)が整備されたエリアがみえる。

 伝承館の規模はほかの地域のものと比較して群を抜いていた。展示内容について詳細には触れないが、「事実」を淡々と網羅的に伝えているような印象を受けた。たしかに展示については批判されることが多いが、率直に言えば、当時はほとんど知識がなかったこともあって、初めて知る情報もあり、勉強になった側面もある。ただ展示スペースの最後エリアに強烈な違和感を覚えた。

 そのスペースは「復興への挑戦」と題されていた。地域社会の復興や再生のために尽力する人たちが現場にいるのは事実である。それを否定する必要はない。違和感の要因は、国家プロジェクトである「福島イノベーション・コースト構想」(以下「イノベ構想」)の宣伝が大きくなされていたことである。イノベ構想のホームページをみると以下のように紹介されている。

福島イノベーション・コースト構想(福島イノベ構想)は、東日本大震災及び原子力災害によって失われた浜通り地域等の産業を回復するため、当該地域の新たな産業基盤の構築を目指す国家プロジェクトです。「廃炉」「ロボット・ドローン」「エネルギー・環境・リサイクル」「農林水産業」「医療関連」「航空宇宙」といった重点分野(以下参照)におけるプロジェクトの具体化を進めるとともに、産業集積の実現、教育・人材育成、交流人口の拡大、情報発信等に向けた取組を進めています。

 双葉町の伝承館は、イノベ構想における「情報発信」の拠点として位置づけられている。穿った見方かもしれないが、このとき直観的に、伝承館という表象空間のなかで何が語られるのか具に確認する必要性を感じた。言葉を換えれば、原子力災害という出来事が「教訓化」されるとき、おそらくそのプロセスは純然たるものではなく、行政の公式見解や意向と何らかの関係性を持つのではないかという仮説が生まれた。

 伝承館を見学し終えたあと、浪江町にある震災遺構請戸小学校に向かうため、海沿いに自転車を走らせた。そのとき路肩でみつけた看板が今でも脳裏に焼き付いている。その看板には「この先帰還困難区域につき通り抜けできません」と書かれてた。その方向には福島第一原発がある。そのとき事故がまだ終わっていないことを強く実感した。

 また浪江町で忘れてはならないのは、津波で死者127名、行方不明者27名の甚大な被害を出したことである。「原子力災害での直接的な死者はいない」といわれることがある。しかし原発事故が起こらなければ、避難指示が出なければ、捜索や救助活動によって助けられた命があるかもしれない。また度重なる避難節活で体調を崩し、災害関連死というかたちで命を落とした方も多くいた。さらに現在、請戸地区は、災害危険区域に指定され、新たな居住や建築が制限されている。いわば「人が住めなくなる/還れない土地」である。ただし「帰りたいが帰れない」といわれるように、事態はそれほど単純ではない。このように「複合災害」という事態の深刻さや複雑さを学んだ。

 翌日には富岡町に行き、とみおかアーカイブミュージアムを見学した。このミュージアムでは、複合災害を地域の歴史に位置づける」というテーマのもと、地域で長い時間をかけて積み重ねられてきた歴史を展示するとともに、震災前の富岡町の様子と比較しながら、東日本大震災原子力災害を境に、地域にどのような変化が起きたのかを伝えていた。ここでは原子力災害が「あたりまえの日常」を奪ったことが身をもって感じられた。

 この3月に4日間にわたり福島に滞在したが、ここで見聞きしたものは、心をぎゅっと掴んで離さなかった。こうして複合災害という出来事について、誰が、何を、どのように伝えているのか、関心を持ち始めた。

という話でした。読んでいただきありがとうござます。次回は3年生の時に取り組んだ伝承館の論文の話になるか/と思いましたが、思ったより今後の研究のアイデアを書いてしまったので、公開はちょっと考えます、、