覚書。

 最近全然更新できていなかったのですが、久しぶりに書いてみました。こないだおしゃべりしてたなかで考えたことを覚書として残しておきます。

 なんらかの抑圧や暴力を経験し、そのひとが傷つき、しんどさや苦しさをかかえているとき。トラウマに苛まれ、絶望や後悔、怒りや悲しみ、そうした複雑な感情が入り乱れる渦中に留め置かれたとき。そこから回復するためには、自身の経験について他者から共感をもって話を聞いてもらい、自分の経験が真実であることを信じてもらうことをつうじて、エンパワーメントされることが必要となる。

 〈わたし〉と〈あなた〉の経験には、なんらかの共通点や類縁性があるかもしれない。それは個人的な人間関係に端を発することもあれば、社会のなかに構造化された差別や不正が原因ということもあるだろう。もしくは双方がかかわることも往々にしてあるように思う。それは、「共感」を生じさせる契機となる。わたしも同じような経験をした、同じような思いをした、同じような傷や苦しさをかかえた、と。ここでは過去形で記したが、それは現在形でもありうる。

 〈わたし〉と〈あなた〉とのあいだに共感が生まれ、そうした共感の輪がひろがる。それは大きな力となり、決して無視できないものとなる。それは社会を変革する可能性を有しているといえるだろう。

 ただし〈わたし〉が〈あなた〉に、あるいは〈あなた〉が〈わたし〉に対して共感をもち、それを言葉や態度で示そうとするとき、留意すべきことがあると思われる。それは〈わたし〉が経験してきた傷や苦しさは、〈あなた〉のものではないし、〈あなた〉が経験してきたこともまた〈わたし〉のものではない、ということである。〈わたし〉と〈あなた〉のあいだには決して越えることができない差異がある。あたりまえのことのようだが、そのひとの経験は、そのひと固有のものであり、侵害することはできない。

 〈わたし〉の経験や語りを〈あなた〉が――逆もまた然り――、我が事のように認識し、翻訳し、代弁するという行為には、ある種の暴力性がつきまとう。そうした行為には、そのひとの経験や語りを「領有」や「収奪」する可能性があるからだ。

 繰り返しになるが、そのひとの経験は、そのひと固有ものである。一人ひとりが異なる経験や考えをもつ。そのため、わかりあえることもあれば、わかりあえないことも当然ある。他者に対するわからなさ、わかりあえなさは、決して心地よいものではない。むしろ苦しいし、ときに他者とぶつかるきっかけになるかもしれない。他者とかかわることには根源的な苦しさやしんどさが含まれている。

 だからといって、ここで思考を停止させ、相対主義に陥り、他者との関係性をあきらめ、放棄することは事態を何も解決しない。そのことは、あるひとが経験した抑圧や暴力それ自体や、背後にある政治や社会の存在を等閑視し、そして不正や差別を産み出す構造を温存し、抑圧や暴力を再生産することにつながる可能性があるからだ。

 ではどうしたらよいのだろうか。〈わたし〉と〈あなた〉が互いの差異について対話し、思考をめぐらせ、そして互いの経験や考えを認め合い、連帯を立ち上げるためにはどうしたらよいだろうか。〈わたし〉と〈あなた〉が互いに尊重し合いながら、――ときに立ち止まりつつも――歩みを進めるにはどうすればよいだろうか。残念ながら、いまの自分はその明確な解答を持ち合わせていないし、そもそも明快な解などない。だからこそ、おそらく地道な道のりになるだろう。他者との関係性のなかで、ぶつかり、傷つくことを経験しながら、それでもあきらめずに、だれかと連帯することの可能性に賭けたい。その可能性を模索したい。

 ということをつらつらと書いてきたが、自分の考えにどこか陥穽があるかもしれないし、自身の研究に落とし込んだとき、「災害伝承」という実践をどのように解釈することができるだろうかという課題もある。「ではどうしたらよいのだろうか」の部分が肝要だけど、いまは書けないので、またいつか続きを書きます。

ここまで1500字くらい。備忘録として置いておきます。季節の変わり目で体調管理が難しいですよね。しかも新年度/新学期という。研究の手が空いた時とかブログぼちぼち更新できれば良いのだけれど。

 

ではでは。