研究の話①

 これから何回かにわけて自分の研究について、エッセイに近いかたちで、つらつらと書いてみようと思います。メモ書きをつぎはぎしたところもあるので、ちょっと文章が読みにくい箇所もあるかと思いますが、ご容赦ください。

 私は現在、公的アクターによる災害伝承を研究している。被災地では、死者を追悼し、震災の経験や教訓を継承することが当初から政策的な課題として関心を集め、公的アクターが主導する形で、震災伝承施設がつくられてきた。

 初めて震災遺構を見学したときの感覚を今でも忘れることができない。たしか2020年8月。どう表現したらいいのかわからない苦しさ。人びとの生活や営みの痕跡が流失し、多くの命が失われたという、取り返しのつかない事態を眼前に、胸を強く締め付けられ、目をそむけたくなった。しかし当初から震災の被害や復興について問題意識をもっていた私は、災害伝承の現場を繰り返し訪れ、いかなる事実が、いかなる手法で、伝えられているのかを継続して観察した。

 そうしたなかでいくつかの疑問が生じた。公的な災害伝承は、ステークホルダー間の交渉や対立、あるいは制度的・構造的な制約といった困難を含んでいるのではないか。災害伝承の現場において、想起に値する記憶や物語が教訓として画定される一方で、周縁化や忘却される記憶が産出されているのではないか。つまり何かが語られるとき、語られない何があるのではないか。そのプロセスは、被災地において行政主導で推進された「復興」と深く関係するのではないか。

 災害伝承の現場では、復興のプロセスのなかで、いかにして記憶や教訓の継承と向き合うのか、試行錯誤が繰り返されてきた。そして災害の経験や教訓が活かされ、リアリティをもった語りが実践されてきた。ここでは、人びとの死をめぐる「なぜ」が共有されることで、「自分だったら何ができるのか、どういう判断をして、どういう行動を取るのか」という自問自答が生まれ、「我が事」として出来事を捉える仕掛けがなされている。

 一方で、そのプロセスは一筋縄ではいかない。多くの死者や困難が伴うトラウマ的な出来事では、人びとがその悲惨な事実を直視するのは容易ではない。そのため災害伝承の現場では、過去や現在とどのように向き合うのか、被災したモノや構造物を残すのか/残さないのか、選択や試行錯誤、苦悩や逡巡の連続であり、さまざまな立場から思いが行き交ことになる。政治的な駆け引きが内在したり、社会的な立ち位置が影響したりすることも往々にしてあり、そのプロセスで葛藤や対立が生じることもある。たとえば、宮城県南三陸町の防災庁舎や岩手県大槌町の役場庁舎の事例では、震災の痕跡を強く残した震災遺構の保存をめぐり、住民間でも意見が分かれた。また宮城県石巻市の大川小学校の事例では、県と市、そして遺族の間の訴訟もあるなかで、事故をめぐる公的な責任を不可視化しようとする動きがみられた。

 現在、災害伝承という理念や営為の意義や価値が自明視されているように思われる。また東日本大震災では、災害伝承が制度化されたことから、行政による財源拠出が積極的にされ、事業が推進された。ただ災害伝承は、そうした社会的な期待や価値とは裏腹に、困難を含みこんでいる側面がある。そのなかで自分が関心を持ったのが、公的な災害伝承が一つの公共政策として遂行される一連のプロセスであり、災害伝承の意義や価値が一種の規範として作用するようになり、言説や表象が構築される政治的・社会的なメカニズムである。こうした事柄について、入念な調査から、詳細に叙述し、分析・考察することが第一の目標である。また被災地で展開する災害伝承の諸相や実態を解き明かすことを通じて、現行の災害復興体制をめぐる構造的な問題性をも逆説的に浮き彫りにしたいと考えている。

 ところで先日卒論を提出した。卒論では、岩手県陸前高田市宮城県石巻市福島県浪江町双葉町において、国の閣議決定*1に基づき、それぞれ整備されている復興祈念公園を対象とし、その政策過程について、復興まちづくりの制度的枠組みと合意形成過程を問題化しながら検証した。それと同時に、地域や生活の再生可能性の途絶や不可逆的な喪失に対して逆説的に問題提起することを試みた。

 なぜ復興祈念公園か。被災地につくられた復興祈念公園は、広大な空間一帯が厳かで整然としており、圧倒される。そうした印象を第一に受けた。ただ誤解を恐れずに言うならば、復興祈念公園の現場に立ったとき、かつてそこに人びとの生活や営みがあったことを、想像することが難しかった。そうした事実が逆説的に示すのは、震災の被害の甚大さかもしれない。ここで留意すべきは、あらゆるものが刷新され、整然とした空間がつくられたことが、被災の事実それ自体だけではなく、被災地における復興まちづくり事業が深く関係するということである。

自宅跡地周辺は住宅地にするための復興事業が進む。花を供えられなくなり、ついに立ち入り禁止になった。足が遠のいた。市内の別の場所に建てた自宅で仏壇に手を合わせ、月命日に墓参する。心は落ち着くが、遺骨がないことに申し訳なさも感じる。/南浜地区には犠牲者を追悼する復興祈念公園が整備される。夫や父のようなたくさんの行方不明者がそのどこかにいるかもしれない。複雑な気持ちになる。/捜索するにも自分一人ではどうしようもない。地域全体の土をくまなく掘り起こしてほしい。一方で復興を遅らせるのは心苦しい(『河北新報』2016年2月24日付朝刊)。

 復興祈念公園という場所については以下のように言い換えることができる。復興祈念公園がある場所は、東日本大震災原子力災害の前は、人びとの生活が営まれていた場所であった。そうした場所は、単なる地理的空間や心象風景ではない。それは自然環境を含めた具体的な土地や空間と、人びとの生活や生業や社会関係、あるいは地域の文化や歴史、アイデンティティとの結びつきの総体である。こうした場所が、「危険」であるとされ、「復興」の名の下で、「人が住めなくなる/還れない土地」に変容した。それは従前の生活者/居住者の生活継続性、あるいは地域社会の再生可能性の途絶を意味する。そして公的アクターが主導するなかで、「復興の象徴」という新たな秩序や意味が計画的に組み込まれた。

 こうしたプロセスは、本来であれば、時間をかけて慎重に考え、対話を重ね、決して一枚岩ではない人びとの論理や事情を擦り合わせながら行われるべきであったはずである。しかしながら、復興祈念公園の政策過程では、現行の災害復興体制をめぐる構造的・制度的な瑕疵から、さまざまな制約が生まれ、合意形成や意思決定について、決定的な難しさを含むことになった。こうした事実を明らかにした卒論では、結論で以下のことを述べた。

被災地に「復興の象徴」として整然とつくられた復興祈念公園から何を読み取るのか、何を考えるのか、そのことを問い続ける作業こそが、東日本大震災という出来事をきっかけに、従前の日常的な風景や生活空間や自然環境が破壊されたり、「復興」の名のもとで刷新されたり、変容したりして失われるなかで、生を喪った人びと、あるいは苦悩や葛藤を抱え、ときに抑圧や困難を経験し、それでも生き延びてきた人びとの忘却に抗い、寄り添うことを可能にする。そして同時に、社会の構造や歴史を根底から問い直し、現行の災害復興のあり方を根本的に変革していくための試金石の一つとなる。本稿はこうした試みの第一歩である。

 復興祈念公園という場所は、純然たる知的・合理的な行為の産物ではなく、人びとの選択や交渉や決定といったプロセスを経てつくられている。その意味で、価値中立性が担保されることはない。過去の出来事や経験を知るための知は、すでに幾度も人の手を介したものであり、真正な過去をわたしたちに直接に伝えているというよりは、はるかに複雑なのである。そうした事実への省察が疎かになれば、何かが失われたとき、そこで何が失われたのか、あるいはそこには何が残されているのかを見落とすことにつながると思われる。そのため、わたしたちは多くの人にとって想起することの意義が自明であるときでさえ、「なぜ、どのように記憶するのか――何を目的として、誰のために、そしてどの位置から記憶するのか――」(米山リサ『広島――記憶のポリティクス』)を繰り返し問わなければならない。以上のような問題意識のもと卒論を執筆した。

 ここまで災害伝承の研究について書いてみました。続く。

*1: この閣議決定(2014年、2017年一部変更)では、「東日本大震災による犠牲者への追悼と鎮魂や、震災の記憶と教訓の後世への伝承とともに、国内外に向けた復興に対する強い意志の発信のため、国は、地方公共団体との連携の下、岩手県陸前高田市宮城県石巻市及び福島県双葉郡浪江町の一部の区域に、国営追悼・祈念施設(仮称)を設置する」こととされている。